滝廉太郎と言えば、「荒城の月」に代表される楽曲を作った音楽家。その滝廉太郎にある都市伝説があるのだ。滝廉太郎は荒城の月以外にも、多くの有名な楽曲を作っていたのだ。
例えば皆さんご存じ
「はとぽっぽ」
「雪やこんこん」
などである。
しかし不思議な話で、これだけ一般に認知されているにも関わらず、これらの曲を作曲したのが滝廉太郎であるということを我々は知らないのである。
これはなぜなのだろうか。実は、これにはある理由があるのだ。
そもそも、我々が口ずさむ「はとぽっぽ」や「雪やこんこん」と滝廉太郎が作った「はとぽっぽ」や「雪やこんこん」は全く違うメロディーなのだ。
なので、滝廉太郎が作った曲を聞いてもイマイチぴんとこないのである。ただし、全く違うわけでもない。歌いだしの歌詞やゆるーい曲調は、どこか現代の「はとぽっぽ」や「雪やこんこん」を感じさせるのだ。
そして、時系列的にも、滝廉太郎が鳩ぽっぽを作ったのが1901年。我々が知っている「鳩ぽっぽ(正式名称は鳩)」が1911年に作られた。
しかし、現代の「鳩ぽっぽ」は、作詞者、作曲者、共に不明となっている。これだけ大衆に広く歌われている曲にも関わらず、不明なのだ。そして、不自然だけなのはこれだけではなく、滝廉太郎の生涯にも不審な点があるのだ。
滝廉太郎は23歳という若さで死んでしまったのだが、滝廉太郎は、当時。子供向けの作曲で人気を博していた。そして、時を同じくして、国を挙げ子供向けの曲を作ろうという風潮があったのだそうだ。
しかし、国を挙げ作られた曲はいかにも、頭の固い連中が作ったようなものであり、子供には全くウケなかったのだ。一方で、当時にしては珍しく、ポップで覚えやすい曲を作っていた滝の曲はどんどんと人気になっていく。
それに面子を潰されたと思ったのかは分からないが、突然。国は、滝をドイツに留学させてしまうのだ。滝本人が希望した訳ではなく、国が強く要請したと言われている。
結果、滝はドイツに留学することになったのだが、ドイツに渡った4か月後、滝は結核に掛かってしまう。そして、数年後、結核が原因で滝廉太郎は亡くなってしまうのだ。
そんな滝廉太郎。
最後に残した曲がある。滝と言えば、ここまで見てもらえれば分かるが、ポップな曲が多いのだ。しかし、最後に滝が残した曲は、それまでの曲調とは一転して、とても悲しいメロディとなっている。
その曲に歌詞はないので、彼の心の内を本当に理解するのは難しいかもしれない。しかし、その曲にはタイトルが付けられているのだ。そのタイトルが「憾」という一文字。
一般的に馴染みのない漢字だが、この漢字はこう読むのだ。
「うらみ」
信じるか信じないかは、あなた次第。
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