徳川家には16代目将軍がいた!彼の悲劇な人生

徳川家と言えば、歴史上「15代将軍徳川慶喜」で終わりというのが通説。しかし、実は徳川家には16代目将軍になるはずだった人がいたのだという。その人は、16代目将軍になる予定だったが、結局なることは出来ず、周りからは16代様と呼ばれて生涯を過ごした。

その人物というのが、徳川家里。しかもこの人物。本来は、徳川家15代将軍になるはずだったのだという。なぜなら、14代目将軍徳川家茂に近い存在が徳川家里であったからなのだとか。では、なぜ慶喜が15代目将軍になったのか。

その理由が、家里の年齢にあったと言われている。家茂が亡くなった時、家里はまだ3歳であった。さすがに、若すぎるので、一旦、慶喜を将軍にしておいて、家里が成人してから家里を将軍にしよう、そう考えたのだという。

だが、実際には大政奉還が行われ、明治政府が樹立し、16代目将軍に家里がなることはなかった。こうして、悲劇の将軍として語られる家里ですが、これはまだ悲劇の序章に過ぎなかった。大政奉還後、徳川家は追放されることなく、貴族として残ることが出来た。

そして家里は、将軍という肩書きを手に入れることが出来なかったが、違う形で権力を握ろうと、政治家に。そんな家里にチャンスが。それが東京市長。今で言う東京都知事の肩書だ。家里からすれば、江戸を収めていた徳川家の復活を意味するほど重要な肩書きである。

その東京市長選任に家里は内定する。が、徳川家のお目付け役であった、勝海舟の反対にあう。勝海舟の願いはただ一つ。徳川家の全国統治。東京市長程度の肩書で満足して欲しくないのだと。その勝海舟の説得にあい、家里は泣く泣くこの内定をける。

それが家里が30代の頃のこと。歴史に残すチャンスを二度不意にした家里。しかし、家里の悲劇はまだ終わらない。時は流れ、50代になった家里。その家里に三度チャンスが訪れる。それが、内閣総理大臣のイス。その当時の内閣であった山本権兵衛内閣があるスキャンダルによって崩壊してしまう。

その後釜として天皇から指名を受けたのが、家里である。しかし、またもや反対を受けてしまう。今度はなんと、徳川家一族である。一度、大政奉還という形で、国の政権から引きずりおろされた徳川家。その徳川家が再び国を背負い、またも政権から引きずりおろされてしまえば、もう徳川家の名は地に落ちてしまう。

そう考えた徳川一族から、猛反対を受ける。結果として、家里は、今度も内閣総理大臣のイスを辞退。もう歴史に名を残すチャンスがなくなったと思われた家里。しかし、最後の最後にまたもやチャンスが訪れる。今度は、東京オリンピック組織委員会の委員長というイス。

そして、家里はその委員長の座に就いた。このオリピックを成功させれば、アジア初のオリンピックということで、必ず名を残すことが出来る。家里にとっては最後のチャンス。しかし、このオリンピックの話が流れてしまう。

1964年に開催された東京オリンピックではなく、家里が就任した際に開催される予定だったオリンピックは1940年のこと。その理由は、もうお分かりの通り、戦争。日本は日中戦争を皮切りに、その後第二次世界大戦へと歩みを進めていくのだが、戦争によって東京オリンピックの話がとん挫してしまったのだ。

そして、その年の1940年。無念の内に、家里はこの世を去ってしまう。そしてその後、徳川家は急速に力を失い、土地も国に買収される。なんとも悲劇な家里だったのでした。

信じるか信じないかはあなた次第。

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