時代劇物では、誰でも知っている忠臣蔵。忠臣蔵の時代は江戸時代の中期。赤穂藩藩主、浅野長矩が上司に当たる吉良義央を切りつけるという事件が発生。
そこで取り押さえられた浅野が切腹を命じられる。それを不服とした赤穂藩国家老である大石良雄と赤穂藩士「赤穂四十七士」は、この家を討ち入りする。そして、吉良を切り捨てるというのが、忠臣蔵の通説である。
実はこの話。実話ではないという。
確かに、事件が起こったのは事実だが時代を経て、何度もドラマ化や映画化されるうちに、事実とは違う話が多々出てくるようになったのだそうだ。
例えば、有名な討ち入りのシーン。
映画等で有名なのは、雪道を進む赤穂藩士たちという設定。しかし、実際には雪は降っていなかったそうなのだ。そして、討ち入りの際の服装も、ドラマや映画では藩士の統一感を出すために衣装を統一しているが、実際のところ、衣装はバラバラであったそう。
というのも、実際に討ち入りする際は、出来るだけ相手に悟られないようにするのが普通のため、明らかに討ち入りしまっせ的な服装なはずがなかったというのだ。
更には討ち入りのリーダーとされている大石。実は、討ち入りにあまり乗り気ではなかった。ではなぜ討ち入りをしたのか。
それは、その当時仇討をはやし立てるような歌が流行っていたため、その気風に押され仕方なく討ち入りをしたのだと言われている。
そして、切り捨てられた吉良。
ドラマや映画では悪人として描かれることが多い吉良だが、実際のところは、物凄い人格者だったと言われているのだ。そして一方の浅野。
彼は、お金持ちのボンボン息子であり、キレ性だったというのだ。ここまで聞いて、いささか不思議なのが。なぜ、こんな話が、まるで美談の様に構成に語り継がれているのだろうか。
その理由と噂されているのが、「塩」なのだという。
当時の塩というのは、高級品であり、赤穂の塩というのは今でも有名。その当時も、赤穂の塩は美味しいと話題になり、赤穂藩には大きな利益をもたらしていたのだとか。
すると面白くないのは吉良側。元々、赤穂の塩のつくり方を教えたのが、吉良の地元だったと言われている。そのため、吉良家と赤穂藩の仲は険悪に。そこに目を付けたのが幕府。
この険悪の仲を利用して、火事場泥棒的に、塩の利権を奪ってしまおうというのだ。そして、焚き付けられた結果、忠臣蔵が生まれたのだと。
この話には続きがある。
もしこの話が大衆に知れたら困るのは幕府である。そこで、思いついたのが、この話を捻じ曲げて、美談にしてしまえというもの。
事実、その数か月後には、歌舞伎の舞台で忠臣蔵が演じられ、浅野側がまるで正義であるかのような構成になっていたというのだ。
当時はメディアが存在しないので、大衆を洗脳するには、歌舞伎が最もうってつけと言われていた。そういったことから、この忠臣蔵というのは、裏で幕府が糸を引いていたのではないか、というのだ。
信じるか信じないかは、あなた次第。
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